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2008-12-16

学習科目についての告白。

今なら何とでもないこと。

小学校入って授業を受け始めて大体卒業の間は大体こなせておりましたが、その後中学校に入学してから終わるころには授業が理解できなくなって苦しんでおりました。

高校在学時にいたっては、正直目も当てられない成績でありました。すごいよ、ワーストの気分って。
そのときから連れ合ってるいまのパートナーが表彰台の三段のうちどれかにいるときたから死にたくなるときもあったね。共通していたことは、授業以外は勉強する時間をまったく払わなかったこと・・

そうなるに至る原因というものを自分なりに解釈してみたんだけど、それは科目のすみ分けでそれぞれ専門に向かうことを選択させられ、それぞれがまったく違う独立した世界を取り扱っていると錯覚してしまったことなのです。


兆しは小学校卒業時から起こっておりました。
大人なんかはよく言いました。理系とか文系とか。最初5教科というものを知ったときは笑いが止まらなかった。あとは、理系は難しいとかそういった推測的な意味づけ。

当然これから内容を身に付けようとする自分には、そういった意見しか参考になりませんでした。

だけど、数を扱うにも自然科学なんか知識を知るにせよ、文体に寄りかかった言語形式で任してるじゃないの、それぞれ統合された形ですべて絡み合った形でのに何でそこまで具態度を高めなきゃならないの。
語学をやっていくにしても算数的な導きなどで証明しながら時に先を予測するアンカーを用い推し進めて全体が見えてくるのになぜ分ける。国語の教科書で社会とか理科っぽい内容が出てくるときがあるのはなぜ?

そんな抽象的な疑問が当時個人的なテーマもであった。当時はその考えを他人に伝える説明自体が困難で心の奥で悶々としつつも、だけど勉強しろとか言われてたからやるしかなく、でも自分はそんな視点でずーーと眺めてたからやがてついてゆけなくなる。
なんのためにやってんだろう・・・・ってね。

あと一番おかしかったのが英語。

日本語で解釈しろってかwwww
そうして覚えた英語を英語を母国語として生きる人の前で使おうとなると言語の存在意義をいかす本来の目的はたせるの???日本語論理で英語をしゃべらせる手法で本当に言いたいこと伝わるなら何で英語を授業でやってそこそこな成績収めてた多くの大人が英語ネイティブとまともにカンバーセーション(笑)できない??www
なぜ何か質問されて答えようとする開口一番に「ァー・・・ァー、」ってゆう??wwww

という感じで、たとえば英語の授業には何の価値も感じなかったのです。


だからといって、放棄した自分も問題点が山ほどあったでしょう。
言い訳に過ぎないともいえましょう。

ただいわせてもらうと、授業の目的のエッセンスには「従属」もなかなかの割合で含まれていたようにお見受けしますがいかがでっしょう?

学校の分野で限ってたとえたけど、日常自体でじわじわといろんな線引きがされてきて、その境界からいろんな物事を複雑にしてきちゃったんだなって細かいこと一つ一つ思いだすと感じたり。
みんなそうやってアイデンティティが作られるといわれるんだろうけど、こういった理屈だと本当の自分とかありえるかね?
それって、いまの自分は決して変わらないと錯覚しちゃう原因になるからまさにお釈迦様が説明した「無明」そのものじゃないかね。限界だらけ。壁だらけ。
キリスト教圏に転換するとそれは「HELL」

中身が飛躍した。

専門分野でその手につよくなるのはいいけど、これはできるけどはあれはどれそれな科目で自分には関係ないから苦手でこれも苦手ってなるようだと、学問の本質とはまったく違うんじゃないの?という意見。



と、昔の気持ちを最近やっとなんとなくうっすら説明できるようになってっきた。という内容。


・・今では成績が最悪だったことはよかったと思ってる。。優秀だったらなら今頃絶対何か必要な知識を身に付けようって姿勢を知らない天狗馬鹿で、シャアに「勝利の栄光を君に」といわれたらいい気になるような奴だったんじゃないの?笑
過去の底辺の悔しさは今でも変わらないけど、それがすごい力に変わるんだな。

結局話題を個人的な自慢に近いものでおとした感があるけどそれもまたありにしておく。。
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comment

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[長文]「考える力」が育っていない

まず、教科とか「理系」&「文系」などに関してはおっしゃる通り。

学校教育の中で、そういう縦割りして分化した形態で授業が展開されていたので、常に「なんでこんなことするの?」的な疑問を持つのは至極当然だと思う。本当はそれぞれが相互に関わり合ってなんぼのものなのだが、教科を越えた連携ってのは当時そんなに難しいことだったのだろうか(謎)

だからこそ、「暗記・詰め込み主義」を否定して「ゆとり教育」が始まったわけなんだけれども、授業時間を減らしたのには閉口した一方、実は「これは!」と思うこともあった。それが小学校での「生活科」とか「総合的な学習の時間」とか。これらはまさに教科を越えた授業(であるべき)であったし、「こういうのをきちんと展開できれば日本でも天才がもっと育つかも」と期待した。

暗記やらが中心の授業を展開しているだけでは、「何かに気づいた」子どもじゃなければ、総合的に「考える」なんてことまでは至らないと感じていたから。もちろん、そんなことは学校で教わることではないという人にも一理あるとは思うけど。

だけど結局子どもたちの「考える力」を育てることはできずにゆとり教育の時代は終焉。

で、授業時間を増やすことになったが、あの時に「授業の時間数は減らしたと同時に学習内容も削減した」ボンクラども主導では、単に時間が増えただけに変わりがなく、たぶん大して変わらない。あの時にやらなきゃいけなかったのは、たとえ時間数が減っても、前やってた量と同じ結論に導ける力を育てることだったのに。

ここから話は変わるけれども、「従属」について
「従属」しているとかいうのは基本的に主観だと思う。まず、どこにいても俺らは何かに縛られているわけで完全な自由なんて存在しない。さらにどんなに「縛られている」状態にあっても「従属している」と感じると負けちゃった気がしない?だから「学校なんて窮屈なところだ」と思ってても、それに従属する必要なんてない。学校なんて人生の一部に過ぎないから。

故・尾崎豊の歌が好きではないのはそういう理由。学校にいる間は彼らはある意味守られていたんだけれども、その視点を忘れている or 気づかないでいる。卒業式の日に「巣立ちの歌」とか歌うが、まさにその時に巣立つんだという意識がないのは若気の至り故か。

勉強なんてつまんないことが多くて、前述の「なんでこんなもん?」と思いつつもぶつぶつ言いながらやるもんだと思ってる。高校までの時なんて、将来の自分がどうなるかとか実際全然わからんわけよ。だから闇雲に(と感じても)いろいろやっとく(&やらされる)のは全然悪くないさ。この時期からえり好みしちゃうと、気づく感覚を持ってるやつじゃないともうそれで終了~ぉ、もう勉強なんてしないになっちゃう。気づく人だけはそれでも後でなんか学ぶんだ。

職業への適性なんて言葉もあるが、そんなもん今でも自分で適性があるなんて思えないので俺は信用していない(笑)

で、英語教育。

この辺りまで来るとコメントがちゃんと載るのか不安になってくるがw

「話せるようになる」ことは重要ではありません。日本じゃ英語は話しませんから。

実は俺が「英語は話すもんだ」と実感したのはまさに高校の卒業式の日。制服でパチンコ屋に行ったら、「3月末まではダメなんだ」と言われて、しょうがなく近くのマクドで友だちとしゃべってた時に横にガイジンがいて、みんなで英語でしゃべってみたら通じるじゃないの。

「あ、俺の話す言葉は通じてるんだ!」とその時初めて実感したね。それまでもなんか話したことはあったような記憶はあるけれども、たぶん「自分の言葉」ではなかったんだろう。

英語が自分の言葉だと感じられたら初めて「使う」につながるんだと思う。

それに最近は帰国子女とか多いけど、英語はしゃべるがちゃんとした英文は書けないし、丁寧な表現もできんとか、それはそれで困ったもん。しゃべれるのが最高というわけではないのさ。だから自分の言葉だったとしても、「使える」と「ちゃんと使える」はまた別問題。

さらに「英語で考える」なんてことは、大人になってからだとよっぽど努力しないと無理かな。読んだり、書いたり、聞いたり、話したりをいっぱいやっとかないと英語で頭の中にイメージ化しない。

そういうわけで、昔の日本の英語教育は話せることを第一にしてなかったし、それでも我慢してればなんかしゃべれるようにはなりますが、

それを「日本人も英語が話せるように」なんてわけのわからんことを言い出して今に至るわけです。「読み書き」の時間を減らして「聞く話す」の時間を増やしてもしゃべれるようにはならんですし、しゃべれるようになったからっていってどこで使うのさ。英語も公用語にするってんならやってくれてもいいけどさ。

それよりももっと考える力を伸ばして欲しいと切に願う。出来の悪いコンピュータみたいに、同じインプットだと同じアウトプットしかでてこない。個性はその辺で出すもので、決して外見ではないのだが、その辺わかってないもんな。悩むのは得意だが考えるのは苦手。そういう人が増えています。

無理矢理終わらせたが長すぎた(笑)

No title

>だーしゅ
熱心なコメント、正直すごいありがたい。

強化を超えた連携のことは、学校に入学するまでにみてきた世界観というものは限りなく広がって終止のないもの(これは理屈として<感覚をあらゆる物事共感させてた>という説明)と認知してて、学校に行くということは新しい感覚として社会の秩序とのパラレルのネットワークを構築する作業だとはいまはそう解釈してる。ただ、そのからくりの意味づけはずっと後になってから。釈然としないで分離が心の中で起こったという感じともいえる。

それからのコメントはうなづきながら読ませてもらいました。
教育する人は人を伸ばしたい願いから仕事してると思うけど、それは賢くすることなのか、生命として生きる力を伸ばすのか、授業のパラメータとして数値を上げることなのかその辺考えてたかなって疑問はある。

「従属」のことは誤解覚悟であえて書いてた。(これはまさに、尾崎思考と笑い飛ばしながら打ってた。)

ただし、本音の話、先生たちは給与所得者でもあるという事実も兼ね備えてて実績という建前も作らねばならなくて、戦略という手段も考慮していたことは見抜いてた。。。というか、捉え方としてそういう側面もあるのだなと推測があった。
そして、先生にも上がいて、その上にもまた上がいる。
会社は頭から腐ってくるということを体験したりしたことと結びつく。

自由のことは、もっともっと抽象度の高い形而上学的な究極の主観という情報領域(自分は空とか呼んでる)の位置では自由があるとは思ってる。
ただ、不完全な自由なのは当然で、自由っていう言葉で自由を捉えることは線引きで自由から脱却できない落とし穴であって、そこに生じる観念が実は不自由であるというパラドックスをといてみたい。という試み。
だから、だーしゅの主観論は正しい。って思う。

そこで、多くの方がいつの間にか情報で物事や自己への線引きが多くなり身動きの取れない生き方をしてると思うことは多い。心理操作で「セルフを主観で作る作業」と錯覚させる手法がカルトでよく使うことは忘れたくないですね。

この分野はゲーデルの不確定性原理のお話にも食い込んでくるし、まだまだこのあたりは勉強不足だからこれからもっと研究してく。

英語のことだけど、それならコンセプトをはっきりさせて取り組ませてくれ~~という気持ちかな。しかも何年も費やせるならなおさら。
いるならいるなりの教育、日本でいて英語なんて困らんなら要らん教育。その程度の英語の存在意義なら必須科目にするわけがもっとわからない。。。。

あとね、哲学的な内容を修めるのに、歴史の授業みたいにならないことを祈ってる。過去の先人の言葉を場をやりぐそすためにテープレコーダみたいに吐き出す教育とか遠慮願いたい。

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